私と「ときわ公園」(UBE city park)との今昔

 コロナ禍で3年振りにときわ公園の「ぼたん園」を散策した。20年前、山口(宇部市)にUターンしてから、季節ごとの風情を楽しみながら様々なイベントに参加、そして孫達が帰省した時には近くの公園でもありよく連れて行っていた。この20年の間に、ときわ公園は単なる市民の憩いの場から「シティ型公園」へと大きく変容しつつあり、近年は、この街の活性化を支えるテーマパークの一つになってきているのだろうと感じる。

 ところで、私が最初に常盤公園(当時はジェットコスターもある遊園地を併設していた)に行ったのは、高校卒業時(約60年前)の確か3月後半だったと記憶する。右の写真は、その時のものである。当時の私は、山口市陶(スエ)という田舎で育ち、宇部という街に行くことに憧れがあったのかも?そして、何か、常盤公園に行って何かの記念を残しかったのかも?その時の気持ちを推し図っているが、今では思い出せない。確か、山陽本線の四辻駅から小郡駅(現在、新山口駅)へ、そして宇部線に乗り換え常盤駅へと、その常盤駅で同じ高校を卒業した中学時代の同期4人が揃った写真もある(右上)。4人のうち3人が婿入りし、1人もお嫁さんの実家でお世話になっているとか。(ちなみに私たちの同級生には次男や三男が多かったし、私は五男である)しかし、意外だが、今は、それぞれが現役を退き悠々自適の生活をしていると聞いている。これらは、往時の懐かしい思い出の入り口となってくれる貴重な写真だ。

 そして、私が社会人になってから再び常盤公園に遊びに行く機会が訪れた。それは、社会に出て最初のお正月(昭和45年)に山口市(陶)に帰省した時である。大学時代の友人が宇部(お父さんが宇部興産に勤務)に帰省していると聞き、で懐かしさもあり彼の家に遊びに行った。その時に彼と行ったのが常盤公園である。往時の写真を探し取り出してみると、サボテンセンターの温室で撮っている。(右)

 そして、驚いたのは、「第1回宇部市野外彫刻展」(昭和36年開催)、向井良吉の「蟻の城」をバックにしている写真もある。「蟻の城」は、今のUBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)の象徴となっているが、その時はその事実を知る由もなかった。

 ところで、“ときわ公園”を最近の宇部市のホームページで開いてみると、私がUターンした当時よりはるかに内容が充実し、「いってみたい・体験してみたい」と思わせてくれる。これは、当時の市政のトップの判断によることが大きいと思う。元々、宇部市は石炭産業から企業城下町として繁栄してきた経緯がある。そこには様々な先人が果たしてきた役割は計り知れないし、そして多大な功績もあった。元禄時代にこの荒れ果てた村の灌漑に、「常盤湖」と「用水路」を築堤した「椋梨権左衛門」もそうである。石炭産業を一大事業として確立した「渡邊佑策」、彼の「有限の石炭から無限の工業へ」の考え方から、「共存同栄」を理念として、産業・学術・文化芸術・医療等の基盤を整え、「村」から「市」へと一気に昇格、その後の繁栄を得た「勝ち組」の都市を形成してきた。

 しかし、私がUターンした20年前は、果たしてその繁栄は続いていたのだろうか?日本全国の地方都市がそうだったように、この地もバブル崩壊によりその企業城下町としてのイメージを変えていく必要に迫られていた。その一つが「常盤公園・常盤湖」を再認識し、再構築(市民からは様々な意見があったと聞いている)することであったと思う。鳥インフルエンザで数百羽の白鳥や黒鳥そしてペリカン(カッタ君?)等、殺傷処分しなければならない不幸はあっつたにせよ、それを乗り越えて、新しいテーマでの「ときわ公園・ときわ湖」をつくる。確かに、私が帰省した当初、常盤公園は、「これは公園?動物園?遊園地?」というほど廃れていたように思う。おそらく、常盤公園への整備に財政資金を回す余裕がなかったのだろう。しかし徐々に地方の観光事業はインバウンドの取り込みに流れは変わっていた。ここ数年コロナ禍での苦難を味わったが、その傷は癒えないにしても、今年のGWは、コロナ禍前に戻ってきていると。日本、地方自治体は様々な課題を抱えている。しかし、そこに住む老若男女、お互いに知恵を出し合い前に進んでいくしか方法がない。この年齢(77歳)となっても世界の様々な事象の危うさを感じながらも、この「ときわ公園」の季節を巡る自然の中で、今ある自分を受け入れ健やかに過ごしていきたいと、念じるこの頃である。(完)

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