書籍「台湾を目覚めさせた男 児玉源太郎」を読んでのまとめ

(AYSA本部会員: kby)

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書籍「台湾を目覚めさせた男 児玉源太郎」 木村健一郎 著 梓書院

はじめに

台湾元総統・李登輝さんに「児玉源太郎こそ台湾に日本精神を定着させた人」と言われ、本書を著した。 木村健一郎

推薦文

・ ジャーナリスト  桜井よしこ
・ 児玉源太郎顕彰会 会長山下武右
・ 台北駐福岡経済文化辨事處 處長 陳忠正

第1章

台湾編Ⅰ

・ 上陸 (明31年源太郎は後藤新平と共に台湾に上陸した)
・ 台湾の歴史(16部族が原住していた、17C後半から清国が統治したが反乱は続く)
・ 台湾をめぐる列強の動き(19C後半列強の植民地競争の為、各地を割譲させられた)
・ 日本の統治はじまる(明28年日清戦争を勝利した日本により、統治が始まる)
・ 歴代総督の挫折(初代総督樺山資紀=統治失敗。二代目・桂太郎=健康不具合で辞任三代目・乃木希典=清廉な統治を目指すも失敗)
・ 進まない治安回復(乃木は三段警備という方針を取るが機能しなかった)
・ 台湾はお荷物(うまく行かない台湾経営に対して放棄論などがあった)
・ 乃木の辞任(清廉な彼は、この惨状に耐えられず自ら辞任を申し出た)

台湾編Ⅱ

・ 当時の源太郎は(陸軍次官であったが乃木辞任にともない、台湾総督を任じられた)
・ 待望の台湾総督、誕生す(千葉県知事になろうと考えていたが、台湾を引き受けた)
・ 後藤新平を片腕に(後藤は性格的に問題児と言われたが源太郎は見抜いていた)
・ 日清戦争の大検疫事業(源太郎は陸軍検疫部を作り、後藤にまかせ帰還兵の検疫を行わせた。後藤はその事業により源太郎の人物に深い信頼を寄せるようになった)
・ 後藤の「国家衛生原理」思想(後藤は衛生局長の時から衛生思想に信念を持つ人間)
・ いよいよ台湾の地へ(明31年両人は船で台湾に赴任した)
・ 統治の方針は無方針(台湾での方針を生物学の原理にのっとるべきと言明)
・ 3つの当面対策(源太郎と後藤は3つの基本政策を練った)

台湾編III

・ 土匪対策が何よりの課題(それまで土匪対策は功を発揮しなかった)
・ 「三段警備」の廃止(対策として、民生部の組織力と警察力で乗り切ろうとした)
・ 軍部の横暴を抑える(後藤と軍の将官との争いの時、源太郎は軍の横暴を戒めた)
・ 源太郎の覚悟(源太郎は軍部が民政に口出すのを嫌がり、民生だけの行政に改正)
・ 総督の絶大な権限(総督は、行政・立法・司法・軍事権を掌握し、絶大な権限を持つ)
・ 官吏の大整理(行政の大改革を実行し、汚職追放、役人の秩序回復をおこなう)
・ 土匪にどう立ち向かうか(土匪の動向を調査し、呼びかけも行う)
・ 招降策の中身=アメとムチの使い分け(帰順する者は優遇し、逆らう者は処刑した)
・ 「警察大人と保甲制度」(大人=警察と、保甲=自衛組織の制度の活用を図る)

台湾編Ⅳ

・ 財政の独立をはかる(台湾経営費は当初7割を本国補助としていたが、10年で支援金ゼロを達成した)
・ 6千万円の事業公債(台湾国費の役10倍の公債を募集する案を作成、後藤に本国と折衝させた。山縣内閣は3.5千万円に減額したが、審議を通過した)
・ 土地調査事業(複雑な土地権利に調査を入れることで明瞭にし、税収入を3.5倍に)
・専売制度と地方税の導入(アヘンの禁止には至らなかったが、漸禁策を取り入れた。地方税も制度化し、税収入を上げて行った)
・ 台湾経済発展のカギは製糖業にあり(産業育成として製糖業を企画、新渡戸を招聘、彼の発案を全面応援し、台湾を世界有数の砂糖生産地に作り上げた)

台湾編Ⅴ

・ 道路の整備(道路整備工事を企画し、台湾中の道路の延伸工事を行った)
・ 鉄道の整備(基隆から高雄までの貫通鉄道工事を始め、2年で完成させた)
・ 港湾の整備(4期にわたる築港工事により基隆港、続いて主要港が施設化された)
・ 水問題の解決(上下水道の整備。灌漑用水の整備などに努めた)
・ 都市計画(都市として台北が真っ先に市街化計画され、整備された)
・ 衛生環境の改善(伝染病・風土病を防止するあらゆる取組がなされ、漸次改善した)
・ 台湾の教育(日本語も教えるが、台湾語も学ばなければならない方針とした。本国より早く台湾帝国大学が設立された。米国報道も「みごとな学校教育」と取り上げた)

台湾編Ⅵ

・ 台湾滞在の記録(源太郎自身の滞在記録を見る)
・ 上京総督といわれて(源太郎は同時に他の役職のため上京することが多かった。残りは信頼しきった後藤に任せた)
・ 源太郎の業績(源太郎は偉大なプロデューサー、後藤は名監督)
・ 後藤新平との出会いが執務スタイルを変えた(後藤は源太郎を尊敬し、彼は後藤を信頼していた。両者が和合一致した結果、いい仕事を残せた)
・ 人を育てる(源太郎は人間を育てる技量も抜群で、台湾経営で多くの人材を育成)
・ 山県有朋の心配(人が何日もかかる問題を数日で素早く結論を出すのを心配した。しかし的を得た結論ばかりだった)

台湾編Ⅶ

・ 台湾住民との交流(住民との交流に心がけ、敬老会や文化人会を催した)
・ 台湾の福祉事業(一般貧民などに対しても福祉事業に努めため。)
・ 地元信仰を大切にする(地元が慕っている賢者への信仰を大切に扱うよう改めた)
・ 陸軍大臣に就任、兼務となる(台湾総督と陸軍大臣兼務を条件に就任した)
・ 第16回帝国議会(明25年の帝国議会において台湾行政とその成果について説明)
・ 陸軍大臣の辞表を提出(兼務は著しく困難につき、陸軍大臣を辞任した)
・ 第二期事業計画(明32年の第二期計画も頓挫の寸前までいつたが粘り強く行使)
・ 児玉文庫(故郷徳山を愛する気持ちはz強く、子供達のためにと児玉文庫を設立)

第2章

生い立ち編

児玉源太郎は、嘉永5年(1852)長州毛利徳山藩に生まれた。幕末の混乱の中で、父半九郎が急死し、児玉家は浅海次郎彦を養子に迎え、家督を継ぐ。その次郎彦も暗殺されてしまうが、その後始末を任されたのがわずか13才の源太郎だった。貧困と屈辱の境遇にあって、時代情勢の変化に伴い、14才の年には児玉家を復興させた。

幕末最後の時期に生を受けた児玉源太郎は、幼少~少年期、決して恵まれた環境ではなかったが、自らを厳しく律し、周囲の情勢をはかり知る英知を養っていたと思われる。義兄の死体を13才という年代で始末したのもその現れだった。

第3章

軍人編

・ 初陣そしてフランス式歩兵学を学ぶ(17歳で戊申戦争に出る。その後京都でフランス式歩兵学を学ぶ。山口の討伐隊に加わわる)
・ 21歳で陸軍大尉(下士官から始まり21歳で大尉となる。黄葉という青年の回顧談)
・ 佐賀の乱で瀕死の重傷(佐賀の乱に出陣したが重傷を負う。大阪の病院に転院した時、知りあったマツと結婚。7男5女をもうけた)
・ 神風連の乱で名をあげる(神風連の乱において的確な行動で目覚ましい活躍をする)
・ 西南戦争での活躍(明10年の西南戦争で熊本城で戦う、九死に一生を得る)
・ 連隊長として=佐倉での5年間(佐倉で連隊長=中佐となり、士気の高い連隊を造る)

・ 参謀本部に入る(参謀本部管東局長として、軍政改革を行う
・ メッケルとの出会い(ドイツからメッケルを招聘し、軍事制度の育成指導を受ける)
・ 陸軍大学校長(参謀将校の養成教育に当たり多くの有能な士官を育てた)
・ 源太郎の大借金(大借金を桂太郎や毛利元徳らが保証人となり、最後は免除となる)
・ 欧州視察(欧州に軍事設備の視察に7ケ月出向き、各国皇帝らに拝謁する)
・ 大山巌から請われて(陸軍次官となった。大山から絶大な信頼を受けた)
・ 陸軍次官・軍務局長として(源太郎の仕事は明快で分かりやすく、説得力は抜群)

・ 政党と政府の対立(山県内閣は、清国の勢力が朝鮮半島に伸びていることをとらえ、軍事予算拡大を訴えたが、野党政党当の反対で頓挫した)
・ 日清戦争を公報で支える(明27年勃発した日清戦争において、大阪-広島間の鉄道敷設を進めた。大山の半島出陣の後釜を全面的に引き受けた)
・ 脳卒中発作で倒れる(日清戦争に勝利したのち、源太郎は脳卒中で倒れ療養した)
・ 製鉄所建設に一役(軍と国の課題として製鉄所の建設を訴え、官営製鉄所が出来た)
・ 灯台と海底電信線の整備(灯台の建設、海底ケーブル敷設を陣頭指揮し、完成)
・ 広島の水道敷設(市内に軍用水道を敷設し「広島上水道生みの親」と言われている)

第4章

日露戦争編

・ 外遊を取りやめてまで(明36年欧米視察する予定だったが、内務大臣に任命され、外遊は取りやめとなつた)
・ 内務大臣・文部大臣として(所轄大臣として、自由な雰囲気づくりと意見交換を行う)
・ 幻の28府県案(日本を1道3府24県にする案をまとめたが、日清戦争勃発のため没)
・ 大ナタ整理への挑戦(文部省も廃止しようと画策したが、温存派の大臣に替えられる)
・ 降格人事を志願して(対ロシアに備え、参謀本部次長の死去に伴い、その役に自らが志願就任した。世に降格人事と言われた)
・ 当時の世界情勢(日清戦争後は、列強が大陸支配を狙って新種したが、特にロシアが満州→朝鮮半島へ南下拡大しつつあった)

・ 児玉の早期開戦論(軍事面と経済的な理由により、ロシアと早期に戦争し決着をつけるのが有利と考えていた)
・ 財界への協力要請(財界大物・渋沢栄一を訪ね協力を依頼、渋沢も熱意に応えた)
・ 陸軍と海軍、協働一致へ向けて(陸主海従を改め、陸軍の予算を海軍に回したりして対戦に備えた)
・ 戦争に備えて着々と(明石元二郎にロシア工作を行わせ議会工作などの準備をした)
・ 総参謀長として最前線の指揮をとる(明37年4本の矢作戦で日露戦争を始めた)

・戦争の経緯(第1軍黒木隊は、東側からロシア軍を破り奉天を目指した。第2軍奥隊は中コースからロシア軍を破り奉天へ進む)
・ 旅順要塞攻撃(第3軍乃木隊は、旅順奪取に奮戦するが、難攻不落。203高地に目標を変えたが不落。児玉大将の指示介入により203奪取⇒旅順陥落に至る)
・ 陣中での源太郎(奉天の大攻勢に命を懸けていた)
・ 奉天会戦(兵力は劣勢であったが、日本軍はロシア軍を攻め勝利を上げる)
・ 戦争の止め時を探る(東京に帰り、戦争の終結に手を尽くした)
・ 講和へ(日本海海戦乃勝利により、ロシアと講和会議が始まる。国民の間に不満)
・ 講和条件を源太郎はどう見ていたか(国家の生存上必要である)

第5章

戦いのあと編

・ 児玉内閣構想(桂内閣の後を源太郎に継がせる案はあったが、台湾総督を希望)
・ 台湾に別れを告げる(参謀本部次長を命ぜられ、台湾から帰還、満州対策に移る)
・ 満州経営委員会(戦争で獲得した満州につき、民営会社で経営する事を決める)
・ 陸軍参謀総長に就任(総長になったものの、軍備拡大路線は難しいと考えていた)
・ 満州問題協議会(欧米の満州経営に対する抗議のため、早期撤兵をすることに)
・ 満鉄=南満州鉄道株式会社=設立に向けて(社員数40万人の満鉄が始動した)
・ 後藤新平の突然の訪問(後藤は満鉄総裁候補に上がっていたが、軍部と外務省の管理の下での経営に難点ありとして、就任を拒む。源太郎は熱ありながら彼を励ました)

・ 源太郎の家族(妻マツとの間に7男5女の子宝に恵まれ、東京に邸宅を造って住む)
・ 巨星墜つ(明39年7月23日未明、中枢性脳いっ血により薨去。享年55才。約2千人の住民が葬列を見送った)
・ その後(後藤新平は、源太郎の遺志だからと満鉄総裁を引き受け、さらに東京市長などを歴任した)
・ 辞世の句=長すぎて 僕のからだに 秋の風

[特別対談]

・ 対談相手 元西日本台湾学友会会長 柳原憲一氏(Y)
・ 台湾に興味を持つきっかけは==元台湾総統・李登輝氏と面談出来たこと
・ 柳原=日本統治は起・承・転・結でとらえるとよい。それを決めたのは児玉・後藤。
・ 台湾の土匪対策==源太郎はその対策に莫大なエネルギーを注いだ。
・ 現在の台湾のコロナ対策==(Y)日本精神が根付いているので成功している。
・ リーダーとしての児玉==根本がしっかりしている。(Y)教育政策も成功を収めた。
・ 児玉は台湾でどう知られているか==(Y)残念ながらほとんど知られていない。
・ 今後の日台関係==日中が優先される傾向の中、安定関係を深めるべき。

児玉源太郎の横(エピソード集)

[日課]早寝早起きし、毎朝水浴びした
[嗜好・息抜き]煙草大好き、下手ながらビリヤード
[キャラクター]話し方が快活、外国語はダメ、墓が立派、息子の媒酌人の頼み方[ポリシー]他の人の主義はあくまで尊重した

おわりに

時代が児玉源太郎を要求し、時代が児玉をつくった。特に台湾への思い入れが強かった。著作にあたり、支援・応援してくれた方々に感謝する。

[資料編]

・ 第16回帝国議会 貴族院予算委員会 速記録から(著者の意訳による)
・ 第16回帝国議会 貴族院予算委員会 第三分科会
・ 児玉総督時代の台湾治政
・ 略年譜 嘉永5年~明治5年まで

著者

木村 健一郎

1952年周南市徳山生まれ。早稲田大学法学部卒。司法書士・土地家屋調査士。   青年会議所などを経て政界入り。山口県議員。平成23-31年周南市長を2期務める。  児玉源太郎の顕彰や台湾との友好親善に尽力。

要約者

KBY

郷土史研究家、すごいぞJAPANプロジェクト主管  2021.10.28 読了・まとめ

※このページの内容は、著作者・出版社ともに承諾を得て掲載しています。


《著作権情報》

●「台湾を目覚めさせた男 児玉源太郎」

出版時期 令和3年7月24日(初版)
著者  木村健一郎   
発行者 田村志朗  
発行所 梓書院
ISBN978-4-87035-719-8     \1700E+税10%

書籍「台湾を目覚めさせた男 児玉源太郎」を読んでのまとめ」への3件のフィードバック

  1. MRN 返信

    KBYさん、投稿ありがとうございました。私こと児玉源太郎のことは、HYSさんが書かれています「坂の上の雲」で読んだことがありますが、詳しいことは存じませんので、これを機会に今回紹介があった本を読んでみようと思っています。KBYさんの児玉源太郎に対する Respect の気持ち伝わってきますネ。最早 Admire の域かも・・・。(新田次郎が武田信玄に抱いている郷土の偉人にに対する attitude のよう)
    ところで私、最近、多分NHK TV で「台湾の人と朝鮮の人とで日本に対する好き嫌い感情が大きく異なるのはなぜか?」に対する見解を知りました。- 曰く「第二次大戦のあと、日本が去った台湾に入ってきた当時の中華民国(蒋介石)の現地政策が余りにも冷徹だったため、相対的に日本のやり方が好意をもって受けとめられているから」とのことでした。この本を読めば、日本の統治政策、児玉源太郎の人柄などがもっと詳しくわかるだろうと思いました。ありがとうございました。 ちょっと余談ですが、「土匪」という言葉は discrimination の響きがあって現在では使われないほうが無難とおもいます・・・。

  2. myz 返信

    早速、宇部市立図書館のネットで木村健一郎著「台湾を目覚めさせた男 児玉源太郎」を検索、貸出禁止中である。残念であるが、アマゾン書籍で「児玉源太郎」を検索すると、多くの方々による著作の書籍がアップできた。最近、書店を覘くと、「児玉源太郎」の書籍をよく見るような気がする。少しずつ認知されてきているのだろうか?この度KBY氏の投稿、この書籍を「マトメ」を拝読し、彼の経歴から「人としての大きさや貫いた信念」のようなものを感じました。確かにHYS氏のコメントの「坂の上の雲」主人公は秋山ですが、旅順での戦いで「乃木希典」と「児玉源太郎」のやり取りは読みごたえがあるのでしょうね。私が子供のころ、母(明治43年生まれ)が彼のことをよく話してくれたことを思い出しました。KBYさん「電子紙芝居」制作大変でしょうがご健闘をお祈りいたします。(MYZ)

  3. hys 返信

    私の繰り返し読んでいる愛読書中の愛読書は司馬遼太郎の「坂の上の雲」です。
    その中の、(六)~(八)は何度読んだことでしょうか。
    児玉源太郎と東郷平八郎、実に素晴らしい足跡を残されました。
    児玉源太郎内閣が生まれていたら、と想像するのは私だけでしょうか。 日本の歴史も、大きく変わっていたのでしょうか。

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