この年齢(77歳)になって感じる私の”距離感”

2023.2.14

最近、なぜ、”距離感”という言葉が気になってきたのか? 3年前から始まった新型コロナヴィルス感染症によるグローバルパンデミック以降である。このことは、近年の世界経済の繁栄をリードしてきたグローバルスタンダードを終焉させ、新たな枠組みを模索せざるを得ない勢力を導引してきた。その様相を呈している中、コロナ禍は、ようやく落ち着きを見せ始めてきているが、あらゆる分野でパラダイムシフトが生じてきている。当時、私達の日常の生活では、コロナ感染対策の一つである「3密」を避ける。その中に、「ソーシャルディスタンス」という言葉が頻繁に使われるようになっていた。そのまま直訳すれば「社会的距離」となる。落ち着き始めた今から始まるウイズコロナの日常生活で、この「社会的距離」はどの様に変化するのであろうか?この「社会的距離」は、単に客観的な“物理的距離”だけを意味するものではなく、併せて主観的な“心理的距離感”ということも考えてみる必要があるのではないかと思う。

人は、この世に生まれて、最初に”距離”は感じるのは、母親の”おっぱい”だと思う。私は、幼少のころ随分甘えん坊だったらしい。らしいというのは、姉や兄達から、「修ちゃん、小さい頃は、お母ちゃんに随分甘えていたよね」と。社会人になって、お盆等に実家へ帰省し、両親や兄弟が集まった時、その話が「酒の肴」になっていた。「そうかもしれなかったな」と、今は思う。小学校に入学したばかりの時に、学校が終わり家に着くと、そこに母がいないと泣いて探していたことを今でも思い出す。すぐ裏の畑で野菜作りをしていて探せばすぐわかっていたのに、である。高学年になるにつれ、母との”甘えの距離感”はなくなってきた。兄弟が多かった(8人)こともあるのだろうが、何時までも甘えておれる家庭環境でもなかった。

よくよく考えてみると、若い時は、この”物理的・心理的距離感”で、喜んだり、悩んだり、悲しんだりと、多くの事を経験した。幼少の頃は、この”距離感”を意識して遊んでいたわけでは無い。只、がむしゃらに「濃いも薄いも」その日暮らしで過ごしていたと思う。その時期の私は、人見知りのところがあり、大人に対し、自ら進んで”距離”を近づけようとはしていなかった。中学、高校となれば、少しずつ大人としての人格が形成され、自分が肌で感じる好感度で、なんでも話せる友人としてのグルーピングをしながら人付き合いを始めていた。今思えばこれが、”心理的距離感”を意識し始めた最初の事だろう。大学時代は、しっかりとした仲間づくり(ゼミ、運動クラブ)が始まり、人との”距離感”(仲間意識)は、より身近になり、数人との堅い絆が出来上がってきたと思う。今でも彼らに会えば、何の気遣いもなく、往時の年齢に戻れることが、そのことを意味している。しかし、社会人になればこの”距離感”を見定めるのは難しい。同僚や部下に対してはそうでもなかったとしても、特に上司との”適度な距離感”を判断するのには、相当苦労した記憶がある。

 私のプライベートで考えてみると、親子関係の”距離感”は比較的うまく進んだと思っている。私は、定年後に宇部にUターンして、子供達との”物理的な距離”は遠くなった。その事で、逆に”心理的な距離感”は近くになったような気がする。そのまま近くにいれば、お互いに甘えが続き、夫々の自立が先送りになっていたのではないかと、今では思う。その一方で、子供達と離れた生活をしてみると、妻と二人の”距離感”も易しいようで、難しい。今は、適度に「近すぎず・遠すぎず」で夫々のプライベートな”距離感”は維持している。私は、このような状態が、お互いにストレスを感じさせない”comfortable distance”と勝手に解釈している。

 さてさて、最近の世の中では、もっともっと難しい問題が起こってきていると感じている。それは、過去30年グローバル市場の進化の中で、日本の政治・経済を”物理的距離”の囲い込みに多くを託してきたことである。しかし、ここにきてグローバルスタンダードの終焉に始まり、ある意味で世界の国々(アジア諸国、中近東諸国、欧米諸国、東欧諸国、ユーラシア大陸諸国、中南米諸国、アフリカ諸国・・・)との夫々の”枠組みの中での”心理的距離感”(近隣国であっても心理的に遠い国)をどのような立ち位置で対処するべきか。難しい舵取りが要求されている。おそらく、世界のリーダーたちは、この舵取りが相当難しい時代に突入していることは理解していると思うが、果たして何が正解なのか見つけられない、思考停止の状態になっているのではないかと感じる。様々な分野の世界的に名の知れた専門家達がいろんな意見を言っているが、どれが正解なのか私にはわからない。唯一言えるのは、各国のリーダーが、グローバル化の終焉から新しい枠組みへの変化に夫々の国の“距離感”を間違った方向に取って欲しくないことである。それは、どんな方法なのか、見つけ出すのが夫々の国をあずかるリーダーとしての責務であるし、それを選ぶ国民の務めでもあろうと思う。人類はこれまで、良くも、悪くも様々歴史を繰り返してきている。「賢者は、歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」といわれている。夫々に適切な“心理的距離感”を、見つけて欲しいものである。

ちなみに「禅の庭」をつくるうえで一番重要なのは個々の「距離感」だと。すべては、この”距離感”のバランスを調整しながら歴史は繰り返していくのだろう。この年齢となり、新しいパラダイムに追従していくのは、中々難しい。考えるとストレスがたまる。自分の身近にあるシニアの様々な集い(味わいが違う、そして深い意味のある)は適度で心地よい。自分の残り少ない人生は、このベターな ”距離感”を大事にしながらの生活に託していこうと思うこの頃である。(完)

MYZ(AYSA西部部会会員)

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