2025-6-3(AYSA西部部会会員 MYZ)
それは不思議なきっかけで始まった。私は昨年11月に防府天満宮の参集殿で開催された高校の同窓会(九華会)に参加し、その折に頂いた「会報」にMY氏(今回のきっかけをくれた)の手記の中に彼の生い立ちなどが記してあった。彼は私より25歳ぐらい若い。よく読んでみると実は彼の出生地が私の実家(山口市陶)の隣にある鋳銭司で、中学、高校の後輩であることが分かった。彼の中学時代に過ごした田舎のことが懐かしく書いてあり、私は彼に思わず手紙をしたためました。彼の住所はわかりません。そこで同窓会の事務局に問い合わせ、ある大学の研究室で講師をしていることが分かり、その大学を通じて私の手紙を彼に渡して頂くようにお願いして出しました。
1か月後ぐらいに彼から突然メールが届きました。それから彼とのメールをやり取りとなり、私が過ごした実家周辺の様子や中学・高校時代の出来事(高校へは山陽本線の四辻駅から三田尻駅への汽車通であったこと等々)、そして彼からも生まれ故郷地鋳銭司でのご両親(お父さんは私のすぐ上の兄とは1学年うえで面識があるとのこと)との生活した時の話題など写真を含め数回懐かしいやり取りを続けました。
その後、今年の年始早々に彼から「名田島食堂」のことについてメールが来ました。詳細をみると地元(名田島)にUターンして故郷を活性化する為に食堂を開業す資金としてのクラウドファンデイングにご支援頂けないかとある。その訳は、故郷での開業を決意した彼女(IKさん)は、私と彼の中学・高校の後輩となる奇縁もあったこと、更に私の中学時代の同期生N君(名田島に在住)と数年前に会って久し振りに懇談した懐かしさもこみ上げてきたからである。当時の潟上中学は、私の実家がある陶、そして鋳銭司、名田島の3つの地区の小学校卒業生が通っていた。その意味も含めて「名田島」という名前は私の中学時代を蘇らせたし、そのクラウドファンデイングに少額であるが応募した。応募の金額によりその返礼の品が違っていたが、この度はオープン時の食事の優待券であった。

オープンに至るにはそれなりの苦労はあったようだ。当初の予定よりは遅れていたが、この4月25日から5月10日までのプレオープンの招待状が届いた。私は早速4月29日の昭和の日に妻と二人のランチ予約を入れた。その食堂の売りは「名田島の自然や食事、自家焙煎珈琲をゆっくりお楽しみください」とある。もともと名田島は新開作といわれ米作りの広大な干拓地であった。一面に農作地が広がり、近年は減反政策の中で大麦や小麦を栽培する耕地に転作していた。予約日は丁度麦畑が黄金色に穂をつけて山の緑とのコントラストがそれは見事な景色だった。
ランチは、日替わりの“名田島”まるごと野菜に新鮮卵の目玉焼きや甘辛酢で炒めた鶏肉を盛り合わせした田舎料理である。外の景色がまるで壁画のように映し出される三つの窓を眺めながらのランチと自家焙煎のコーヒーを頂きながら穏やかな時が過ぎてゆく。最初はプレオープン時の招待であったので、帰り際にその食堂の雰囲気などの若干の気付きをお話しした。正式オープンは5月11日(日)で金・土・日の営業らしい。私達は6月1日(日)に再訪ランチの予約を取りその店の雰囲気を味わいながら食事をした。結構繁盛しているようで予約以外の来客はお断りしていた。正式にオープンしてからはKRYやTYSのニュース番組にも取り上げられ県外からの来店もあったと聞く。

私達が行った日は中年のライダー3人が外席でコーヒーを飲みながらドローンを飛ばして周りの麦畑景色バックに自撮りをしていた。いろんな楽しみ方があるものだ。

ところで、私は20数年前にUターンし、この宇部で約10年間職を得ることが出来70歳まで働いた。名田島食堂の開業する彼女は50歳まえにUターンしてこの故郷で何かを始めたいと。様々な葛藤があったようだ。インターネットで名田島食堂を検索するとそこまでに至った経緯がよくわかる。開業には相当の決意をもって臨んだのだろう。私もUターン組、彼女たちは未だ若いうちからの開業である。これからうまくいくことを願いながら行く末を見守ることにしよう。(完)
※掲載している写真は名田島食堂のインスタからコピーさせていただいた
※私の通った潟上中学は、山口市の南部地域で陶ヶ岳の麓にある。近くには南若川が流れている。陶地区や鋳銭司地区は国道2号線沿いにあり、名田島地区は国道2号線と山陽本線の南側に位置している。この3地区を山陽本線が横切っていて、一番近い駅は「四辻駅」である。