当会員が歴史小説の電子書籍 続編第4作目出版

書籍名は「激動回り舞台」! 『益田家物語』の4作目

以下著者がAYSA会員宛に出されたメールの内容です。一部編集しています。

著者より4作目出版に際してのコメント(書籍価格 350円 前3作は300円)

*もし表紙画像が消えた場合は、ブラウザを再読み込みして下さい。

遅くなりましたが、『益田家物語』の四作目を電子書籍として出版致しました。
シリーズ作品の中で、今回は朝鮮の役、関が原の戦い前後の益田元祥(男盛りの34歳~45歳)の物語です。 
益田家が親の代から吉川家に抱く「御恩」の意識は元祥と広家の絆を深く結んでいました。 
二人の強い信頼関係が結果として毛利の家名を残しました。

過去出版しましたように、もともと益田家は石見の西部を治める国人領主として400年の歴史を益田に、さらに江戸期には、萩、萩市須佐に大きな足跡を残されました。
その益田家19代、20代を語り続けようと80歳に手が届いた現在、物書きをしています。

関が原の戦いで周防・長門に大減封された毛利家は財政的に非常に困窮し、藩の運営が立ちいかない状況に追い込まれました。
それを救ったのが家臣の益田家20代・益田元祥です。 
その功績で、子孫は筆頭永代家老家となり毛利家を補佐し続け、後の明治維新に繋げました。

私は一人でも多くの方々に、益田家の足跡に興味を持っていただきたいのです。
その方々が益田、須佐、萩を訪ねたいと思うような物語を繋ぎ、五万人/年 程度の観光客の増加を夢見ています。

ふるさとは遠きにありて思ふものそして悲しくうたふもの。。。。室生犀星。。。。

 今回は  『激動回り舞台』 ペンネーム:高津清流です。 
通常価格は¥350-ですが、ただ今、期間限定で購入無料キャンペーンを使いました。
即ち期間限定で「0円」で値付けしています。
無料期間は12月21日(大平洋標準時)から5日間です。
(無料始まりは日本時間21日17時以降になります)

小生なりの捉え方で益田家物語を書いています。
中国地方の戦国時代、江戸初期の歴史にご関心お持ちの方は良い機会と思います。

読後、レビュー等で厳しくご指導頂ければ望外の幸せです。
なお購入者には「カスタマーレビュー」に星5つを付ける権利と、「カスタマーレビューを書く」権利が
付いている筈です。(ただ全員ではなく、Amazonをよく使っておられる方のみ??)
ぜひレビューを書いて下さい。



以上、新規電子出版と購入無料キャンペーンのご連絡です。
宜しくお願い致します。



「激動回り舞台」のご紹介

まえがき

まえがき

これは、戦国時代から江戸初期に到る中国地方の一国人領主家の物語である。
具体的には、鎌倉時代初期から石見の西部を治め、激動の戦国期も、どうにか家名を繋ぎ、後に長州藩の永代家老家になる益田元祥とその父・益田藤兼の物語である。

益田家は陶晴賢とは婚姻関係で結ばれ、同盟を固めていた。そのため、西国一の大大名・大内氏を滅ぼした毛利元就は、益田家をきびしく敵視して領地を取り囲んだ。周辺の武将が益田家を離れ、滅亡が迫っていた。 両者の緊張が最高になった時、益田家十九代・藤兼は毛利元就次男の吉川元春と和議を結んだ。その後、元春に従い、毛利傘下として各地で戦った。

藤兼は総大将・毛利元就に対する益田家の要求の取り成しを元春に依頼するようになっていった。元春は、この毛利家への取次の役割を通じて藤兼を代表とする石見国衆に対する地位を次第に強化していった。 藤兼は元春から受けた「取成」を「御恩」と認識し元春への信頼を深めていった。 この「御恩」の意識は、子の益田家二十代・元祥の代になっても長く益田家に引き継がれた。

戦国時代の生き残りの鍵は信頼できる仲間づくりであり、その究極の姿の一つは、婚姻関係を築き、親戚となることであった。 藤兼は元春の娘を元祥の嫁に迎えた。
その元祥は、成長後、武将として益田の兵を率いた。

この篇は、シリーズ作品の中で元祥が三十四歳から四十五歳くらいの男盛りで働き、戦った頃の物語である。すなわち、元祥は、吉川元春の跡を継いだ吉川広家のもとに家臣を率いて加わり、一緒に多くの戦いに参加した。 朝鮮の役、関ヶ原の戦いに参加した益田元祥の、浮き沈みの激しく緊張続く頃の物語である。

広家は、毛利両川の一方の旗頭・吉川家の当主として、毛利家のリーダーの一人であった。 一方、益田元祥はそのリーダーに従い、支える参謀格であった。

少し、さかのぼれば、この国の戦国時代の国盗り合戦は次第に収斂し、豊臣秀吉が、ほぼ天下を平らげた。
むごたらしい戦いの時代が終わり、泰平な世の中が来ると人々は期待した。しかし天下人・秀吉には、欲望に限界がなかった。国内を平定すると、朝鮮、更にその先の明国迄従わせようと無謀な野心を抱いた。

その朝鮮の役でも、益田元祥は吉川広家と行動を共にしている。 
特に慶長の役で起こったうる蔚さんそん山城の戦いでは、朝鮮・明連合軍の猛攻によって壊滅しかけた籠城中の将兵を救い出し、吉川広家と馬を並べ、明・朝鮮連合軍を追う大活躍をした。

続く関ケ原の戦いでも、その東西の戦いの流れを決定づけた吉川広家の義兄として、参謀として勝敗に大きな影響を与えた。 
始まりは、毛利家当主の輝元がその宿老に相談することなく、三奉行、安国寺恵瓊等の提案に同意し、西軍大将に就任してしまったことであった。毛利家の危機を感じた益田元祥は、密かに吉川広家、福原広俊等と集まり、打開策を話し合い、戦場で東西 どちらが勝とうと毛利家が生き残る算段を考えた。

実際に始まった関ヶ原の戦場で、東軍が勝利を決めた直接の動きは小早川秀秋の西軍裏切りであり、秀秋が松尾山から眼下の西軍に襲いかかったことで東軍勝利の流れが決まった。
しかしそれらの状況は全て、背後の南宮山の毛利軍が動かぬことを見極め、毛利が背後から襲いかからないことを確信した家康側が、東軍の主力を石田三成率いる西軍に、安心して突入できたからである。その上で、南宮山が動かない状況を確認し、家康に分があると考えた小早川秀秋が西軍への裏切りに動いた。  

すなわち、東軍勝利を決定づけたのは吉川広家が毛利軍を足止めし、動かさなかったからであった。
同じ南宮山北山麓にいた益田元祥の、参謀としての役割は非常に大きかった。広家の決断をうながし、迷う広家を義兄として支え続けた。

しかし毛利家にとっては、戦場だけでは終わらなかった。 大阪城で奉行衆と同調した輝元の花押が押された書状が徳川方によって多数押収された。 その結果毛利家は改易の危機に陥った。それを止めたのは死を賭けて家康と交渉した吉川広家の働きであった。この切羽詰まった状況の広家を支えたのは、ここでも益田元祥であった。
徳川家と毛利の交渉は厳しいものであったが、なんとか周防・長門の二ヶ国が残り毛利家としての大戦が終わった。
益田家が親の代から吉川家に抱く「御恩」の意識は元祥と広家の絆を深く結んでいた。 二人の強い信頼関係が結果として毛利の家名を残した。 

元祥は大減封された毛利領の中で、知行地として石見に隣接する、長門の須佐を与えられ、益田を離れることとなった。
この益田という土地は、先祖が居を構えた以降、領民と共に山野を開拓し、河川や湊を整備した。何とか皆が生きていける土地にと、四百年間育てあげて生まれた石見きっての沃地であった。 その地を離れるのは無念であり、後ろ髪を引かれる思いであった。  

この長門への第一歩の時期は、領地が四分の一に減った毛利家を、直後から悩ます財政困窮の始まりでもあった。毛利家にとっては、実に多難な藩政が目の前に待ち受けていた。  (次回に発表します波乱万丈な元祥の生きざまをご期待下さい)

電子出版3部作
前3作

既に発表した作品との関係で言えば   
石見春舞台」 は十九代・益田藤兼の生きざまと活躍を描き、「郡山城大舞台」は
石見春舞台」 後の藤兼の働きを語っている。その篇では断片的に十歳の二十代元祥が父親と行動を共にしている。
さらに「碧き海舞台」 では、益田藤兼のあとを継いだ益田元祥の幼少期から成人する期間の物語である。その時代に次いで、この「激動回り舞台」が元祥の男盛りの頃の苦難と活躍である。その時代に起こった朝鮮の役や関が原の戦いを中心に物語を進めている。

本作品集は全て一人称で書いている。
益田元祥はこれらの大戦に家臣を率いて吉川広家軍に加わり、義兄として参謀として、広家を支え、二人して歴史の歯車を回し、毛利家の命脈を繋いだ。

石見春舞台
郡山城大舞台
碧き海舞台
激動回り舞台

これらの物語は一篇一篇独自の内容を持ち完結する。これから更に書き進めるシリーズ全体を貫いてみれば氏と氏(特に毛利氏や吉川氏)に対する「報恩」や「縁(えにし)」を核とする更に大きな物語世界が形成される形態を考えている。ご期待下さい。

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