私と一回り違いの姉(89歳)への思いを綴る

令和5(2023)年8月3日

 

 昨日、姉(T姉ちゃん)が入居している老人ホーム(山口リハビリテーション病院 幸楽苑)に妻と二人で面会にいった。面談時間は15分に制限されていた。コロナ禍でここ数年会えていなかったが、やはり、往時の元気でよく話す姉とは様変わりで、お互いの会話では、問答にミスマッチが多く、認知症が相当進んでいることを窺わせた。
私は、義理の父の認知症で、病状についてはある程度理解していたが、面談しているとやはり寂しく、残念な気持ちになった。今は、認知症病棟でお世話になっているとのことで、おそらく自分の日々の生活がどのようになっているのかは、理解できていないのだろう。

 ところで、私には2人の姉がいる。一人は、私が生まれたころに防府の開業医のところに嫁に行った、93歳で今も健在の一番上の姉と今回面談した二番目の姉である。私が幼少のころは、この2人の姉とは年齢が離れていて、姉たちが、どのような生活をしていたかは、ほとんど記憶にない。かすかに覚えているのは、私が小学生のときに、中耳炎で吉敷郡小郡(現在は山口市)にある耳鼻科に週1回、通院していた時の事。バスで小郡まで行き、当時の小郡の「全信連」に勤務していたT姉ちゃんがバス降車場に迎えに来てくれていた。が、ある日、私が何時ものバスに乗り遅れたため、バスが到着しても私が降りてこないので、大騒ぎになったことがあった。

 T姉ちゃんが、吉敷郡秋穂(今は山口市秋穂)に実家があるM家に嫁にいった経緯を私は知らなかった。M家には、私の実家の隣にあるS家から、T姉ちゃんのお婿さんになる人(S兄さん)の母上が行かれていた。その関係だろうか、当初、私の父がこの結婚に反対だったと聞いたことがある。しかし、そのことが本当かどうかは判らない。S兄さんは、M家のご長男で、T姉ちゃんが結婚する時には、大阪に本社のあるA工業に勤務されていた。最初は、大阪の十三に居を構え、そのあとは、箕面市、川西市、斑鳩町(奈良県)に転居された。

 私が、最初にT姉ちゃんにお世話になったのは、昭和43年の5月中旬ごろだろうか。就職試験の第二次面接で大阪に本社のあるS銀行に出向き、その面接が終わったあとに、何故か、急にT姉ちゃんに会いたくなった。当時、T姉ちゃんは、家族3人(夫と娘)で、A工業の箕面にある社宅で暮らしていた。私は、S銀行の本社のある地下鉄御堂筋線の淀屋橋から梅田に行き、そこから阪急の宝塚線の石橋駅で箕面線に乗り換え 桜井駅で下車。そこからT姉ちゃん宅に電話を入れた。突然の訪問だったので、少し驚いたようだったが、すぐにS兄さんが車で迎えに来てくれた。そこで面接の様子を話しながら一晩泊まり、翌日、実家(山口)に帰省し、6月中旬ごろにS銀行から内定通知をもらったと記憶している。

 その後、お世話になったのは、S銀行に勤務するようになってからである。最初、私は近畿地区の勤務で、独身寮(南海本線、浜寺公園近くにある羽衣寮)に入寮した。折に触れ、箕面にあるT姉ちゃんのところに遊びにいった。当時、京都大学の学生だった、弟のSちゃんも呼んで一緒に美味しい「餃子」をたらふく食べさせてもらったことを思い出す。T姉ちゃんは、その当時から世間の動向には関心が高く、いろんな情報を耳に入れていた。野球は完全なトラキチ(父がそうであったように)、私はジャイアンツであるが、何故かお互いのやり取りに波長があっていたのかもしれない。それから、機会があれば土曜日の夕方に行き、翌日日曜日遅くS兄さんに近くの駅まで車で送ってもらって、帰寮という日もあった。

 私が、結婚してから箕面のアパート(T姉ちゃんの社宅の近く)に居を構えてからもお世話になった。特に、私たちの子供が生まれてからは、お互いに行き来するようになった。S兄さんは魚釣りが趣味で、自身でボートの免許を取得し楽しんおられた。一度、両家族みんなで行こうということで、兵庫県の日本海側にある釣り場(香住だったかどうか、定かではない)に車に連れていってもらったことがあった。私の妻が車酔いをしたことはよく覚えている。私が東京に転勤するまで、数えきれないほどT姉ちゃん家族にお世話になった。私の妻も山口の生まれ育ちであり、大阪での暮らしに友達もでき楽しみもあっただろうが、いろんな悩み事の相談相手にもなってもらっていたのではないかと思う。

 その後、T姉ちゃんは、S兄さんが会社を定年退職してから、ご両親のお世話をするということで、山口秋穂にUターンした。両親のお世話には相当苦労したらしいが、弱音は吐かなかったようだ。ご両親が亡くなり、数年は平穏な日々を送っていたのだろうが、その後、私たちの実父が亡くなり、確か49日の法要だったと思う。法要・直会が終わり、それぞれの帰宅に皆さんと見送りに出て家に戻ると、そこでS兄さんがいないことに気がついた。近所を捜していると、道端に倒れているのがみつかった。クモ膜下出血だった。何とか一命は取り留めたが、後遺症が残った。S兄さんのお宅には、他にも「風邪をこじらせて幼少の長男を亡くすなどの不幸があった。そこからS兄さんが亡くなるまでの17年間、T姉ちゃんの介護が続いた。大変なことは誰の身にもあるのだろうが、きっと、この17年間は心の葛藤との戦いで、T姉ちゃんの辛い時期だったのではと想像する。

 「今回の面談では、お互いの会話はほとんど通じなかったが、別れ際に心の中で『大阪ではS兄さんとの暮らしの中でいろんな楽しいこと、うれしいこと、悲しいことがあったね。本当に、よく頑張ってきたね!』と叫んで、その場を離れた。存命中にはもう会うこともないかもしれない。 合掌」  

MYZ(AYSA西部部会会員)

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