化学分析班 4人組の西国に集う

 昭和 35 年に松江高校に入学した際、理科の科目として化学と生物を選択することができた。化学を選択したクラスが確か 4 クラスあったと記憶するが、私は 30R に配属され、31R と一緒に化学を井上尚賢先生から教わることになった。井上先生は、化学分析班の顧問を務めておられ、同クラブへの勧誘を強く進められ、迷いもなく入部した。当時の同クラブの主な活動は、松江の堀川の塩分濃度を継続的に測定することによって、中海から入ってくる塩水の変化を観測することであった。そこで、部員は、グループに分かれて決められた場所で定期的に採水し、持ち帰って硝酸銀溶液よる定量分析をしたものであった。そうした縁で、1 年の夏休みに島根県の衛生研究所から堀川の水質検査の研究支援のアルバイト依頼が井上先生を通してあり、I 君、H 君と共に参加した。夏休み終了後には、その研究成果を全校の研究発表会で発表したが、入賞は逃した苦い経験をした。ところが、2 年の夏になって、今度は島根県の工業試験場より「飯梨川水系の水質調査」の依頼が舞い込んだ。当時、県は松江市の唯一の水源である大谷ダムだけでなく他水系に拡張する計画を検討していた。その一つに布部ダム、山佐ダムを建設し、飯梨川水系(現安来市)からの取水が有力候補として浮上していた。そのため、県は飯梨川下流域の水質を調査する必要となり、井上先生を通して化学分析班に支援を依頼してきたのである。この誘いに乗ったのは、YN、TT、HT と私であった(以降、4 人組と称す)。 4 人組は、約 1 か月間古志原の工業試験場(当時)に通い、三浦清氏(島根大地質学教室卒、後に島根大教授に転身)の指導のもと、現地に出向いて 20 カ所前後の井戸や河川の水を採取し、持ち帰って分析した。分析項目は、塩分、窒素分、溶存酸素等々一般的な水質検査項目の多岐に亘り、JIS 規格に従って行った。初体験の事ばかりで当初は戸惑ったが、徐々に習熟するに従い次第に興味も湧いてきた。こうして、無事に調査研究を終了することができ、例によって夏休み明けに研究発表会に発表することになった。今回は、代表して YN が報告したが、目出度く入賞して学校代表として県大会に出場した(結果は覚えていない?記憶にないので多分入賞はダメだったか・・・・?)。

 こんな経験をした 4 人組のその後は、数学の天才であった HT(理学部数学科へ進学)を除いて化学を専攻する理科系の大学に進み、化学をベースにした職について人生を送ってきた。間違いなく高校時代の体験が、その後の人生を決めたと言っても過言ではない。

 4 人組は、年賀状のやり取りは行ってはいたが、高校卒業以来 4 人が一堂に会するのは 2017 年 3月に HT の世話で奈良東大寺の修二会(お水取り)まで待つことになった。3 月 2 日(木)に奈良に集合し、東大寺の観覧ツアーに参加した。その夜の「お松明」儀式では、個人では近づけない二月堂の真下まで行くことができ、降り注ぐ火の粉を浴びる感激に浸り、忘れえぬ思い出となった。実に 50余年の時を隔てて旧交を温め合い、またの機会を誓って散会した。

 それから月日が経って本年 3 月 7 日に妻が急逝した。嘔吐などの体調不良を訴えて、かかりつけ医に診てもらっていたが、僅か 4 日目で呆気なく逝ってしまった。葬儀は近親者のみで細やかに自宅で執り行うことにし、ごく一部の方に訃報連絡をしたにもかかわらず、地域の知人や友人数十名が参列し、見送ってもらったのには大変有難かった。

 葬儀が終わって一段落した時、悲しみを誰かに伝えることによって心の空白を埋めることができるかと、弱い自分を抑えることができなくなった。まず、思い浮かんだのは、4 人組を含む高校の同級生、メールを送ってしまった。折り返し、電話やメールで慰めの言葉をもらい、どんなに心強く、生きる勇気をもらったことか。そして、「仏前に線香をあげるため、宇部に行く」との申し出を受けた。こうして、5 月 29 日~30 日に 4 人組が宇部に集まることとなった。

 筑波、大阪、東広島から新幹線(のぞみ 19 号)にて 13 時33 分に新山口着。私は、改札口まで出迎え、山口‐宇部道路を通って一路自宅へ(約 20 分)。挨拶もそこそこに、自家製の出雲そばで遅い昼食を振舞う。もう 20 年ほど前から自宅前の畑で蕎麦を栽培し、食べる直前に粉にし、打ち、茹でる所謂3たて(挽きたて、打ちたて、茹でたて)を楽しんでいるが、腕に縒りをかけて出雲名物「割子そば」をサーブ。

 しばらく歓談後、宇部市内を案内する。残念ながら有名な観光地を思いつかないので、32 年間奉職した宇部興産を知ってもらうため、明治 30 年に宇部炭鉱を起点として創業した会社の歴史を展示した「UBE-i-Plaza」と工場群を案内した。あいにく雨模様となり、車の中から化学、セメント、機械および百万トンを超える石炭の貯蔵施設およびそれらの原材料を出荷、搬入する港湾施設等を見学した。しかし、歴史ある宇部興産の社名は昨年 4 月に消滅し、セメント、機械事業部はそれぞれ分社して、化学事業を核とした UBE 株式会社となってしまった。エネルギー多消費事業から地球環境問題の解決に貢献する事業へと大きく舵を切っていかなければ生き残れないとの経営陣の判断であるが、宇部市民を含めて大方のOBと同様に一抹の寂しさと不安を覚えるものである。

 それから、宇部市が管理する市民の憩いの公園である「常磐公園」に案内した。ここで 2 年に1度開催される UBE ビエンナーレ(現代日本彫刻展、https://ubebiennale.com))は、世界でも最も歴史ある野外彫刻の国際コンクールである。常盤湖に面した芝生のスロープには、第 29 回(2021 年)の入賞作品 15 点のほかにこれまで入賞した話題作が一堂に展示されている。彫刻家や一部鑑賞眼のある人にとっては見逃せない作品群だそうだが、専門外の私にとっては取り分け感動を呼ぶ程ではなく、正に「猫に小判」。もう 60 年も続いるが、宇部市民の中にはその効果を疑問視する人も多く、存続論が常に浮上してくる。岡山、香川県ノ島々で開催されている「瀬戸内トリエンターレ」に動員数で桁違いに水を空けられている。ともあれ、今年も 30 回目の募集が始まっている。

CoCoランドにて

 また、常盤湖といえば、400羽近くの白鳥が飼育されていた「白鳥の湖」として全国的に有名であったが、2,011 年に数羽の白鳥から鳥インフルエンザウィルスが発見され、全数殺処分されてしま った。周辺養鶏業者への配慮から、行政は殺処分を決めたようだが、「何も殺さなくても?・・・・一部を隔離措置して、拡散を防止すれば・・・」との意見は、根強く残っている。

 市民からは宇部のシンボル白鳥の復活を願う意見が多数寄せられ、他市へ寄贈されていた白鳥の子供数羽が里帰りし、およそ 10年ぶりに飼育が開始されたという。

 雨の中の散策は年寄りには堪える。公園の北側の高台にある宿「CoCoランド」に案内したのは 6 時過ぎ。チェックインして6 時半より会食を開始。昔話に花が咲いた。

東行庵公園にて2
東行庵公園にて1

 30 日(火)は、下関方面の観光、特に激動の江戸末期に奇兵隊を創設した高杉晋作に纏わる「東行庵」と「功山寺」を訪ねた。高杉晋作は、天保 10 年(1839 年)、禄高200石の萩藩士高杉小忠太の長男として生まれ、藩校明倫館や松下村塾で学び、奇兵隊の創設、下関戦争の休戦講和交渉など幕末に活躍しましたが、慶応3年、肺結核のため27歳数か月の若さで病死する。遺骸は遺言により奇兵隊の本拠に近い吉田の地に葬られた。晋作の愛妾であったおうの(谷梅処)が、看取りその後出家した。これを哀れに思った奇兵隊の総督を引き継ぎ、後に総理大臣を務めた山縣有朋から明治2年に草庵を贈られ、これを晋作の号に因んで「東行庵」と命名し、亡くなるまで霊を弔った。東行庵の裏山には、晋作の墓所のほかに顕彰碑、銅像などがあり一通り散策した。東行庵は拝観できなかったが、隣接して昭和 41 年に開館した東行記念館を見学した。さらに、周辺一帯は池を配した公園となっており、菖蒲園はちょうど花が見頃であった。

 次は晋作が奇兵隊を決起した所として知られる長府の功山寺に向かった。功山寺は鎌倉時代に創建された曹洞宗の古刹で長府毛利家の菩提寺であった。この寺の仏殿は、入母屋造の典型的な禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されている。屋根の反りが美しい仏殿をバックに記念写真を千葉からいていた母娘に撮ってもらう(次写真)。

 当時長州藩では、禁門の変やアメリカなど四国連合艦隊による下関攻撃などでの敗北により、幕府に恭順しようとする派閥(俗論党)が力を持ち挙げ、討幕を唱える急進派は粛清されていった。こうした動きに危機感を感じた晋作は、奇兵隊や諸隊に藩政府を打倒する決意を説いて回るが、同調したのは僅かに 80 名(力士隊:総督;伊藤俊輔、30 名と遊撃隊:総督;石川小五郎、50 名)だけだった。業を煮やして晋作は、元治元年(1865 年)12 月 15 日深夜功山寺でクーデターを起こした。藩の新地会所を襲撃、掌握した。この結果をみて、諸隊は次々と合流し、翌年 1 月の大田・絵堂の戦において諸隊が勝利し、俗論党は失脚する。功山寺挙兵は、長州藩の派閥闘争(元治の内乱)の嚆矢であって、明治維新に向けての長州藩が改革の表舞台に躍り出た正にターニングポイントであったと言われている。(元治の乱は最終的には正義派が勝利し、俗論派は排撃されたが、正義派・俗論派・征長派の各勢力内は細かく分派し、それぞれが独自行動をしたため事件は複雑な経緯を辿る。実に複雑な人間ドラマが何篇も書けるだろう。因みに、妻の高祖父にあたる瀧原勉庸徳(たきはらつとめやすのり)は、宇部の領主福原家の馬術・砲術師範に任じられており、奇兵隊の宇部分隊の立上げの中心人物であった。山縣とは親交があり、晋作とも面識があったとのことである。)

功山寺仏殿を背景に

 時間は 11 時過ぎ。下関の唐戸市場で名物な屋台寿司を買って昼食にしようと、長府の功山寺からカーナビに従って細い裏道(初めて通ったがショートカット)を通って国道 9 号線へ抜ける。(京都から松江を経由して下関までの 9 号線は、津和野、山口を通って小郡で 2 号線と合流し、最後下関に入ってから長府で関門トンネルに通じる2号線と分かれて壇ノ浦の瀬戸内海側のルートを通っていることは意外に知られていない。)そこから、下関市の唐戸市場までは約 4 キロの道のり。小雨の中、市場の駐車場に車を停め、勇んで市場へ足を運んだが、ほとんどの店は片付けをしながら値引き販売中ではないか?(後で調べたら寿司屋台は、金・土・日・祝のみの営業、ガイド役としては失格でした)。思い直して 2 階の回転寿司屋へ上がったが、(これもネタが新鮮でボリューム大で人気店)昼時前で長蛇の列。帰りの新幹線は、新山口発 14 時 11 分(のぞみ 14 号)、ここでゆっくりしてはおれないと、昼食後に安徳天皇を祀る赤間神宮を参拝する予定を変更し、宇部まで引き返し旧職場(山口県産業技術センター)で使っていた寿司屋での昼食となった。

 食事が終わると、旅旅やまぐち割(2,000 円)を使っての買物時間を考え、余裕をもって新山口駅まで無事に 3 人を送り届けた。最後は不手際で迷惑をかけてしまった。

 こうして、4 人組の再会は 6 年ぶりに実現したが、残念ながら妻の不幸がキッカケとなってしまった。しかし、仲間が直ぐに駆けつけて、沈んだ気持ちを慰めてくれ、生きる希望を与えてくれた。真の友人を持ったことに感謝したい。本当に有難う。  合掌 (2023.6 記)

(ASD氏投稿)

化学分析班 4人組の西国に集う」への1件のフィードバック

  1. myz 返信

    ASDさんへ 
     名門の松江高校時代に化学分析班で結ばれた4人組、奥様の急逝の寂寥の励ましに、この西国の地に集う!まずは、遠隔地から来られた皆さんにご自宅で「3たて」した、出雲名物「割子そば」(私も出雲大社にお参りした時に食したことがあり、その美味さは忘れられない 時として家内とその話題が今でもでる)をサーブとのこと。なによりのおもてなしと奥様へのご供養に。きっと4人組の皆さんと往時の青春時代を振り返り、化学分析のこれから等のお話が弾んだことだと想像しています。2日間のガイド役も十分すぎるぐらいにこなされ、ASDさんのやり終えたという安堵感も伝わってきます。最後に、奥様のご不幸に仲間がすぐに駆けつけて、沈んだ気持ちを慰めてくれ、生きる希望を与えてくれた。真の友人をもったことに感謝したい。と結んでおられる。翻って考えるに、私にそのように励ましてくれる友人が存在するのだろうか?この度の投稿を拝読して、人生の機微にどのように自分の行動がとれるのか、改めて考えさせられました。ありがとうございました。合掌  MYZより

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