長姉のS姉ちゃんのこと

2024-5-26(AYSA西部部会会員 MYZ)

 みんなに優しかったS姉ちゃん、家族や親類縁者に見送られて冥土へと旅立った。昭和6年生まれ94歳の大往生である。私はS姉ちゃんの若い頃はあまりよく知らない。
S姉ちゃんがお嫁に行く前に家族全員が揃っている写真が手元にある。昭和24年の暮れに撮った写真と想像する。
「後列の一番左がS姉ちゃん 前列の右端が父 左端で赤ん坊を抱いているのが母 筆者は右から3番目(この時は未だ3歳)」

 S姉ちゃんは、赤ん坊の私をおぶって女学校に通ったこともあったそうだ。母の長姉(母は「刀祢のお姉さま」と言っていた。年も離れていたのでよく可愛がられたらしい)から「お嫁に行く前の娘に赤ん坊をおんぶさせて女学校に通わせるとは!」と叱られたことがあると、私は母と姉から聞いたことがある。姉は女学校を卒業して(18歳)でお嫁に行くことになっていた。嫁ぎ先は、母の義兄(母の姉の婿)が防府市右田佐野で開業医をしておられ、姉と結婚する方はその家に幼いころ養子で育てられて医者への道に進んでおられる方だった。考えてみれば、姉は嫁ぎ先の義母とは姪であり、婿となる方は母の義兄の甥である。聞いた話では、当初この結婚に反対もあったようである。しかし、母の長姉が、相手方の義母となる母の姉を説得して結婚に至ったらしい。姉は嫁いでから義理のご両親には相当の気苦労もあったようだ。私の母には何かしら漏らしていたかもしれないが、私はそのことを直接聞いたことはなかった。
 一方、その当時の実家の家計は戦後の預金封鎖による預貯金の切り捨てや農地解放などにより、厳しい状況にあった。そんな状況でも大家族(子供が8人)を育てなければいけない事情もあり、姉の嫁ぎ先からは、医者として私たち家族の健康を守ってくれていたのである。その一つに私が幼少のころ大病をし「もう覚悟をしなさい!」と母は言われたそうである。しかし、その後の義兄(姉の嫁ぎ先の義父)による必死の手当てで何とか息を取り戻し、私が目を覚ました時にアイスクリームが食べたいと言って、それをぺろりと食べた私を見て“涙が溢れた”と母は私にいつも「口癖」のように言っていた。

 さて、私が姉の嫁ぎ先とより親密になってきたのは、私が大学(地元の国立大学)に入学してからだろうか。姉の家で若い人を集めて「仏法の御讃嘆会」(東雲会)があり私の弟と隣のAちゃんを連れて参加していた。終わると(夜の9時ごろ)、義兄が医者として忙しい中でも、車で私達の家(山口市陶立石)まで送ってくれていた。義兄はしばらく私の家にとどまり私の母とお茶を飲みながら“お念仏のありがたい会話”で”やすらぎ”の時を過ごしていたのでないかと、今では思う。

新入行員の時の社員旅行 東京駅でその時の背広を着ている

 姉の次女の家庭教師をしたことがある。そのお礼と就職(その年にS銀行の内定をもらっていた)祝いに防府にある紳士服屋のオーダーメイドで背広を誂えてもらった。私は採寸に何度かその店に行き、私が社会人になって初めてその背広を着て入行式を迎えたことを覚えている。その背広は、オーダーメイドだけあって丈夫で随分長持ちをした。

私が就職(大阪)してからは、母からの「往復書簡(田舎便り)」で、兄弟や姉妹の家族の様子を知ることが出来た。そのことは私の心の糧となり社会人としての成長にも繋がったのではと、今では思う。
その後は両親のアニバーサリーのイベントがあれば、必ず帰省し兄弟姉妹の絆を深めたものである。私の祖父母、父や母の兄弟のこと、私の実家のルーツのこと、今思えばこのようなイベントで私達家族の家系が繋がっていたのだと振り返ることができる。

私のすぐ上の兄がNYへ転勤時 兄弟での送別会 前列左端がS姉ちゃん
父の13回忌 母を前にしての姉妹 右がS姉ちゃん

(合掌)

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